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ハインリッヒ・シュリーマン(Heinrich Schliemann, 1822年1月6日 生まれ)は、ドイツの考古学者。
ギリシャ神話に出てくる伝説の都市トロイアが実在することを発掘によって証明した。幼少のころにホメロスのイーリアスに感動したのが、トロイア発掘を志したきっかけである。当時は「トロイア戦争はホメロスの作り話」と言われ、トロイアの実在も疑問視されていた。そのためシュリーマンの「トロイア実在説」は荒唐無稽なものとされた。
彼は、発掘調査費を自弁するために、貿易などの事業に奔走しつつ、「イーリアス」の研究と、語学にいそしんだ。晩年に発掘調査に必要な費用が用意できると、さっさと事業をたたみ、トルコのトロイア地方へ発掘調査の旅にでた。彼は遺跡を発見した。この発見により、古代ギリシアの前史時代の研究が大いに進むきっかけとなった。
というのが、これまでの俗説、およびシュリーマンの主張であった。が、近年の研究ではこれらの主張はシュリーマンの虚言癖、もしくは見栄に由来するものであるとされる。シュリーマンは確かに金持ちになったが、これといった夢があったわけではなかった。しかし、教養ある妻に対しコンプレックスがあったことから、トロイア遺跡発掘が子供のころからの夢であったと語ってしまい、発掘に挑む羽目になってしまったというのが現在の通説である。・・・・実際、子供のころから夢を抱いていたにしては彼の発掘についての知識はあまりに乏しかった。 ・・・
清国(当時の中国)に続き幕末の日本を訪れ、著作"La Chine et le Japon au temps présent"の中で鋭い観察眼を披露して見せた。本書においてシュリーマンは、清とは反対に日本の文化・風俗を絶賛している。
以上wikipediaから抜粋した。
以下は、
H.シュリーマン、石井和子訳:シュリーマン旅行記、講談社学術文庫
からの抜粋、引用である。
この旅行記はトロイア遺跡の発掘6年前の世界旅行の途中清国および日本に立ち寄ったときの話である。
かれの世界旅行は1864年。アヘン戦争は1839年。
シュリーマンは清国訪問の最初にこう書いている。
万里の長城については、これまでさんざん聞かされてきたが、その内容は様々で、互いに矛盾するものも多かったので世界旅行の途中、上海に行った折、私はどうしても長城を訪ねたい気持ちを抑えることが出来なかった。
彼は船に乗ってまず天津に着く。
天津は人口40万を超え、その大部分は城外に住んでいる。私はこれまで世界のあちこっちで不潔な町をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の町は汚れている。しかも天津は確実にその筆頭にあげられるだろう。町並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている。
ついで北京へ向かう。
私は、城壁の内側でものすごく素晴らしいものに遭遇できると思っていた。しかしそれは、ひどい間違いだった。北京には、荷馬車曳きが泊まる、ぞっとするくらい不潔な旅籠を除けば、ホテルというものはない。私は、とある仏教寺院の前で足を止めた。
僧たちは客のもてなし方を十二分に心得ており一日6フランで部屋を貸してくれた。彼らは初めに12フラン要求したが、値切りに値切ったあげく、ようやく半額にしてもらった。私の部屋は4メートル四方で、半分を幅広の石のベッド〔オンドルのことか〕が占めている。私には、疲れた体せ横たえるため、石の上のいちばん軟らかそうな部分を選ぶ特権しか与えられなかった。
ベッド以外の床の部分は、土が剥き出しになっていて、埃を静めるために水がまいてあった。ところが歓待しようと思うあまり、ふんだんに水を撒いてしまい、おかげで床はぬかるみ、ひどい悪臭を発している。
調度品は、ベッドのほか、机一つと床几がひとつですべてである。
以下この本の中で宿での食事などについて、緑茶を出されるがミルクも砂糖もついていないと言うことを彼はたびたび書いている。
北京の街で出くわす情景について以下のように書いている。
ほとんどどの通りにも、半ばあるいは完全に崩れた家が見られる。ごみ屑、残滓、なんでもかんでも道路に捨てるので、あちこちに山や谷ができでいる。ところどころに深い穴が口を開けているので、馬に乗っているときはよほど慎重でなければない。
どこへ行っても、陽光を遮り、一呼吸を苦しくさせるひどい埃に襲われ、まったくの 裸か惨めなぼろをまとっただけの乞食につきまとわれる。どの乞食もハンセン病を患っているか、胸の悪くなるような傷に覆われている。彼らは痩せこけた手を天に上げながら、ひざまずいて額を地にこすりつけ、大声で施物をねだる。胸を引き裂かれるような思いがしたが、私には彼らの苦痛を軽減してやることができない。
こう書いたあと、小銭を持ち運ぶのは重くて出来ないため施しができないのだといういいわけを付けくわえている。
以下街のなかで見かける情景について。
全裸同然の屑屋をよくみかける。彼らは肩に籠をかつぎ、手には小さな熊手を持って、ごみ層や灰の中からどんなに小さな紙屑でも炭でも見逃さないで集めている。またぞっとする光景だが、飢えた犬の群が糞集めの人夫たちの目を盗んで、自分の糞や馬糞をむさぽり食っている。
首のまわりに1メートル33センチ四方の板を水平につけられた罪人を、至る所で見かける。彼らは手を口に持って行くことが出来ないので、通行人に食物を恵んでくれるよう頼み、さらにはそれを口に入れてくれるよう懇願せざるを得ない。板に取り付けられた高札には罪状と処罰期間が記されている。ほかに重量約10キログラムの鉄塊を腕や足に取り付けられた罪人もいる。これほどの重さを取り付けられて、さらに歩こうとすれば、鉄塊を頭上に持ち上げるほかない。背中にはその悪行と処罰期間を示す札がつけられている。
寺院を訪ねてその荒れ方を嘆く。
それから光の寺(景教寺院)と孔子廟、高さ24メートルの仏像をはじめいくつかの仏像を納めてあるラマの寺を訪ねた。シナの寺院建築はヨーロッパ最高の建築家も一目置くほどのものである。だがいまは、無秩序と頑廃、汚れしかない。仏像の衣も壁に施された素晴らしい刺繍もぼろぼろに剥げげ落ち、窓枠は一部が砕け、張りめぐらされた紙は随所で破れている。壁の煉瓦も屋根瓦も、生い茂る植木のためにがたがたになってしまっている。
途方もない費用をかけて建設したこの壮大な建築物を、いまや退廃し堕落した民族が崩壊するにまかせているのを目の当たりにするのは、じつに悲しく、心痛むことだ。もし寺をきちんと保ち、美しい姿を後世に残そうと思ったなら、それぞれの寺に常駐の職人を二人もおけば充分だったろうに。清国の君主たち、また民の愚かさ加減、意気阻喪ぶりは、自分たちの神々の聖堂、栄えある祖先の建てた俸大な建造物を崩れるがままに放置したさまに、遺憾なく現われている。
宿での話。
野次馬たちが部屋の中まで入り込んでくる。彼らが旅行の目的は何かと聞く。召使いのアトション(この旅行中つれて歩いている召使い、中国人か?)が長城を見るためだと答えてしまった。すると彼らは大口を開けて笑いだ出してしまう。石を見るためだけに長くつらい旅をするなんてなんと馬鹿な男だろと言うわけだ。
どうしてもしなければない仕事以外、疲れることは一切しないというのがシナ人気質である、これは言っておれなくてはならないだろう。
彼はついに念願の万里の長城に到達する。その上に立ったときの感激を次のように述べている。
眼下の南方に広がるたくさんの丘の美しさといったらた比較するものがないくらいである。丘をはるか越えたあたりに北京平原が望まれる。東側の峡谷の彼方、のこぎ り状の巨大な山脈によってふちどられた幾千もの岩山の眺めは、まさに崇高というほかない。
長城は山から谷に下りつつ、同じ高さの三本に分岐する。真ん中の一本が古北口の 町を横切り、あとの二本は町の周囲に広い円を描く。三筋の城壁はまた、この先、谷 を越えた高い地点でふたたび一本になり、山の稜線にそってジグザグとうねりなが ら、のこぎり状の大きな岩の山脈に近づいていく。さらにこの山脈の切り立った側面 を軽々と乗り超え、あらゆる急坂を貫きながら、長城は山脈とともに雲のなかへ消えていく。
私はジャワ島の高い火山群、カリフォルニアのシエラ・ネヴァデ連峰、インド側のヒマラヤ山頂、そして南アメリカのアンデス山脈の高原から、素晴らしい眺望をたくさん見てきた。しかしいま、眼前に展開された光景の壮麗さに匹敵するものはなにもなかった。
私は呆然自失し、言葉もなくただ感嘆と熱狂に身をゆだねた。
以上a)清国編終わり
参考文献
H.シュリーマン、石井和子訳:シュリーマン旅行記、講談社学術文庫、1998年発行2002年第13刷発行
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by お絵かき爺
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